「義理」とは、『本義は物事の正しい道筋。対人関係や社会関係において、守るべき道理。』http://ja.wikipedia.org/wiki/義理(Wikipedia)とある。
「義」とは、
『人間の行動・志操に関する概念である。
儒教における義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪を羞じる心のことである。
キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされる。これは他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいう。義しい人を義人と呼ぶ。
神によって「義とされる」(義とする:ディカイオオー)ことも同じ問題圏に属する。
真に義であるのは神のみである(「義人はいない」)が、人間は神を信じることにおいて義さに近づくことができる。信じないことは不義と同義であるとされる。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れる。
ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされる(信仰義認)と考え、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などを否定した。』http://ja.wikipedia.org/wiki/義(Wikipedia)「理」とは、
『中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。もと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
理気説(りきせつ、Lĭ qì shuō)では、「理」は事物の法則性をあらわす概念で、「気」も事物を形づくり事物に生命を与えるガス状の物質と考えられた。 程頤は、気の現象する世界の奥に、それを秩序づける存在を措定して、これを理と呼び、これを究明すること(窮理(きゅうり))が学問の要諦だとした。
朱熹によれば、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は無為であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。
王陽明は、「理は気の条理、気は理の運用」という理気一体観を表明している。仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することを事と言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は「事」である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。』http://ja.wikipedia.org/wiki/理(Wikipedia)
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