2014年1月21日火曜日

蕗谷虹児

蕗谷虹児

大正~昭和に女性を熱狂させた挿絵画家にして、少女マンガのルーツ、詩人、作詞家、また日本の「アニメの祖」と言われている多方面に才能を発揮したアーティスト。
新潟県新発田市出身で、そこに蕗谷虹児記念館がある。

といっても、実際に産まれたのは水原町(現 阿賀野市)のようだ。
阿刀田 高 著「夢の宴 私の蕗谷虹児伝」によると幼少期の数年間、母方の実家「鶴の湯」に預けられていて、新潟~柏崎~新潟~新発田~新潟と転々としたようだ。2回目の新発田住まいは、新潟の大火で焼け出され逃れてきたそうで、いまの掛蔵小路の小便小僧のあたりだったとか。

この本で気になったのが、1912年(大正元年)14歳になった蕗谷虹児が 桜井市策 新潟市長(爆弾市長)の目にとまり当時の大家 尾竹竹坡を紹介したという件があるが、このとき市長だったのは吉田良治郎という方で桜井氏は1916年から3年間市長を務めていると新潟市のホームページにある。ちなみに1914年、苦労の末に新潟市と沼垂町の合併が成立した。時代のうねりの中で、蕗谷虹児は東京に旅立ったことが伝わってくる。

Wikipediaをはじめ、ちょっと符合しない。ま、おそらく阿刀田さんが勘違いしたというところか。

そこから、修行時代を経て、パリで認められることに。
しかし、日本で暮らす家族の家計が破たんし、やむなく帰国。
借金を返すために挿し絵を書き始め、それがブレイクしたということだ。

12歳で若い母(享年27歳)を失った蕗谷虹児は、その作品に美しく幼い母を描き出そうとした。


日本のアニメーション草創期、東映動画(現 東映アニメーション)設立に関わり、手塚治虫や宮崎駿らに影響を与えたそうだ。長編少女マンガが今のマンガ文化の走りで、そのルーツは蕗谷虹児にあるという。記念館にも近年、全国各地から若いマニアがやってくるようになった。

代表作「花嫁人形」は新発田市の所有で、蕗谷虹児記念館に展示してある。
この絵には、いまの所有者(ご子息)も知らなかった、肉筆を見ないと分からないある秘密があるそうで、実際に見てほしいところ。
この絵が郵便局の「ふるさと切手」に採用され、売上日本一となっていて東京スカイツリータウン9階に移転オープンする郵政博物館」(2014.3.1)のこけら落とし展示として脚光を浴びている。


追伸:お孫さんのひとりが鎌倉稲村ケ崎で日本料理店「虹(こう)」を営んでいるそうだ。