2013年5月4日土曜日

キューバ移民「最後の男」

島津三一郎さん(107)という方が19歳で新潟県新発田市からキューバに渡り、
今ではお住まいのフベントゥ島一番のご長寿になられているというニュースが流れた。

医療大国キューバの恩恵を受ける105歳の日系人を取材しました。」(FNN)
“カリブ海に浮かぶ島国・キューバは、医師の数が日本の3倍近くいる世界有数の医療大国です。
ここに、最後の日系1世である105歳の男性が元気に暮らしています。
キューバの首都ハバナから南へ300km、フベントゥ島。
1898年、日本人農業移民が入植。
現在、およそ1,100人の日系人が暮らす。
その多くが、この島で農業に従事した。
島津 三一郎さん(105)は、日系移民1世最後の1人。
日系農業移民最後の1人、島津 三一郎さんは「わしゃあ、生まれは、新潟県新発田」と話した。
19歳で新潟県からキューバへ渡り、91歳になるまで、スイカやトウモロコシを育ててきた。
今では、島一番の長寿となった島津さん。
85年間、一度も帰国したことのない祖国。
忘れたことはない。
島津さんは「県立新発田中学校(旧制)、そこの校歌。蒲城の東五十公野の大空高く聳ゆるはこれぞ吾々学生が教を受くる校舎なる」と校歌を口にした。


家族がいない島津さんは、老人ホームで暮らす。
そんな島津さんの日常から見えてくるのは、医療大国キューバの素顔。
社会主義国のキューバでは、教育と医療費は無料となっている。
医療で利益を得ることは目的としていない。
キューバ革命後、カストロとチェ・ゲバラが真っ先に取り組んだのが、教育と医療だった。
島津さんの診察が始まった。
診察しているのは「ファミリードクター」と呼ばれる診療所の医師。
キューバの医師の数は、10万人あたり681人で、日本の3倍となる。
地域医療の軸になるのは、ファミリードクター制度。
カルテは、ファミリードクターが一元的に管理し、大きな病院に転院しても、同じカルテが使われる。
全国1万3,300カ所の地域診療所に勤務するファミリードクター。
全患者の80%に対応し、地域住民の健康に責任を持っている。
病状が重い場合は、地域病院が治療を行い、高度医療は総合病院で行われる。
最高度医療は、研究所が対応する。
レベルに応じた医療機関の役割が、明確に定められている。
キューバ医療の中核をなすファミリードクターが心がけていることがある。
ファミリードクターのエレナ・ゴンザレス医師は「医療は予防に重点を置いています。患者が重症化しないよう、常に予防するという心がけが、結果的に国の医療費の削減にもつながります」と話した。
島津さんが暮らす地域の老人ホームに、食事の時間がやってきた。
3度の食事と3度のおやつ付き。
島津さんの食欲は旺盛。
たばこも、1日20本支給されている。
24時間、医療スタッフが看護をし、2日に1度は専門医の診察も受ける。
病気の際は、施設内の個室で治療を受け、病状が重ければ、近所の総合病院で治療を受ける。
島津さんは「ここは一生50年、100年、1銭もいらないところ。世界にない、んなもんない。そらな、感謝、ハイ」と話した。
施設の1カ月の費用は40ペソ、およそ200円。
これは、老人年金の6分の1。


島津さんは「日本と違います。養老院」と話した。
島津さんは2013年、体調を崩した。
しかし、早期に病院で治療し、2週間の入院を経て、住み慣れた老人ホームに戻ることができた。
マグダリス・ソリア副施設長は「この老人ホームは、さまざまな背景を持った家族のいない身寄りのない老人が集まっています。ベッドや部屋も、亡くなるまで確保されています」と話した。
島津さんのベッドは、生涯保証されている。
105歳の島津さんには居場所がある。


今の目標は、きわめて明快。
島津さんは「アイ・ケ・ビビル(生きなければならない)」と話した。
社会主義国のキューバでは、医療行為でもうかるシステムになっていない。
患者が減ることが、全ての人にとって幸せなのだという。
105歳の島津さんも、そんなキューバ医療の恩恵を受ける1人。
島津さんは「日本にお帰りで? さようなら。三一郎・島津は、130歳まで生きております」と話した。
曲がり角に立つ日本の医療。
その行く末を考えるうえで、大きなヒントがある。

キューバは資源が少ないため、中南米のベネズエラ、ボリビアといった国々に医師を派遣するなど、医療を外交にも利用しています。
また、医療水準を高めるため、医学部の学費は無料。
そしてこのルールが留学生にも適用されるため、社会主義の国々から優秀な学生が集まるということです。”


母校の新潟県立新発田高校の大先輩だということが分かり、尊敬。

調べてみると五十公野出身の方で、放送では105歳となっていたが、たぶん107歳。
たいへんなご苦労をしてこられたようだ。



LIVE2013 ニュースJAPAN&すぽると! 2013.05.03

幸せの指標~世界が注目するキューバ医療~」(京都文化社)

移民史講座というサイトの「最後の男」から引用(1998.09)

“ キューバへの最初の日本人移民が誰だったかは明らかでない。だが、現在のところそれにもっとも近いところにいるのがアルゼンチンから入った宮下幸太郎(石川県出身)である。おそらく一九〇〇年のことだろう。
 ところが、それより二年遡るという話が湧いてきた。ハバナ上陸の際の入国者名簿に七人の日本人らしき姓名の記述があることをキューバの日本研究家二人が見つけた。六年前のことである。そのトップが「Osuna Y.」と記された人物で、キューバ政府が主唱している今年の「キューバ日本人移民百周年」はこれを根拠にしている。
 だが、その出港地がメキシコのベラクルスであったこと、船名がオリサバ号であったこと、ハバナ入港が一八九八年九月九日であったこと、それ以外、出身地、性別はもとより、Osunaが姓なのか名なのか、それすらわからない。
 想像の域を出ないが、彼らは、いわゆる旅芸人の一行ではなかったか。当時、アメリカ東海岸から、商用、遊学、保養といった一過者のほかに、こうした芸人たちのキューバ寄航の蹟がいくつも見られるからである。たとえば、一八九一年キューバに入った南方熊楠もハバナで日本人曲芸師と遭遇し、一座に同行、ハイチ、ジャマイカと巡遊している。そう考えれば、それこそ悪い冗談だが、南方熊楠がキューバ移民第一号だったといってもいいことになる。キューバに日本人が、いわゆる移民として入っていくのは、今世紀初頭、それも一九一〇年前後のことなのである。
 それ以前、メキシコには、榎本武揚が主導した榎本移民を別とすれば、一九〇三年から八年にかけて、大陸殖民、東洋移民、熊本移民の三移民会社によって約八千人の日本人移民が送られていた。だが、ここでもペルー同様、移民会社の謳い文句と現実は大きく異なっていた。混乱の中で帰郷した者、アメリカに流れた者とさまざまだが、残った者も、その後のメキシコ革命の動乱の中でメキシコを見限っていく。そのうちキューバに渡ったのは、一九二〇年までに五十九人、うち新潟県出身者は八人。その彼らによってキューバへの日本人移民の歴史がはじまる。キューバへの日本人移動の起因はメキシコ革命にあったといってもいいだろう。
 彼らが魅せられたのは、当時のキューバが砂糖景気に沸き、ペソがドルと等価で流通していたからだった。だが、バカ・ゴルダ(太った雌牛)と呼ばれた好況も一九二〇年代前半を限りに長い不況に入り、それによって錦衣帰郷の夢も消え、さらに、日米開戦による収容と、それに追い打ちをかけたカストロ革命による資産接収によってすべてが終わる。
 千百四十三人。キューバへの、これまで明らかになった日本人移民総数である。ハワイ、アメリカ、カナダはいうまでもない、ブラジル、ペルーなどラテンアメリカ諸国へのそれと比べてもごくわずかだが、少数ゆえに、その詳細がかなりの割合で明らかになった珍しい例でもある。うち、新潟県出身者は百三十五人、沖縄(百九十六)、広島(百四十九)、熊本(百四十五)に次いで第四位を占める。その最初が新発田出身の小川富一郎だった。
 一九〇六年、メキシコ南部コリマ州の砂糖耕地に移民、契約を終えたあと日本人移民四十人前後を組織して農場経営をはじめた。だが、革命の動乱が激しくなったため、それを避けてキューバに移転、中部サンタ・クララ州(当時)の製糖工場セントラル・コンスタンシアに入り、その郊外のカルメリナに二十五カバジェリアス(約百万坪、甲子園球場グランド二百二十八個分)にのぼる広大な土地を得て農場経営を再開した。そして、郷里新発田とその周辺から七十五人を呼び寄せる。だが、不運にもわずか二年で病のために中断、彼自身は療養で日本に戻り死亡する。三十歳だった。
 そのあとを受けたのが同じ新発田出身の榎本惺で、カルメリナ北方約五キロのオルキタスに農地を得て、同様に、郷里から十七人を呼び寄せた。しかし、彼の試みも砂糖価格の下落によるキューバ経済の悪化の中で失敗に終わる。
 その後の彼らはどうしたか。帰郷した者も少なくなかったが、多くは残留。キューバ各地に四散しながらも郷里から親類、縁者を呼び寄せ、その後の日本人社会の一つの核となる。一時は、新潟県出身者がもっとも多数を占めた時期もあった。一九二〇年代後半のことである。
 そして七十余年、今年はじめには三人が元気でいた。それが、三月に窪田ヨシミ(九十一歳=新発田市諏訪町)、五月に井上三代(九十二歳=新発田市板山)と相次いで死亡、島津三一郎(九十一歳=新発田市五十公野)ただ一人となってしまった。彼は一九二八年、伯父島津岩吉の呼び寄せで、中部カマグェイ州(現、シエゴ・デ・アビラ州)モロンに入ったあと独立し、イスラ・デ・ピノス(現、イスラ・デ・ラ・フベントゥ)でずっと農業を続けてきた。
 島津に会ったのはもう十六年も前のことである。多くを語らない、その寡黙さが逆に何か人を惹き付ける、いかにも越後人らしい男だった。移民以来、ずっと独身を通している。その彼が、別れ際にこういった。「最近の新潟はどうですか」
 それを、一度帰ってみたい、と受け取った私は、出過ぎたこととは思いながら、郷里の新発田を尋ね歩いてみた。だが、身元引受人が見つからず一時帰国は叶わなかった。以来、心残りで、どうしているのか、気になっていた。
 ところがうれしいことに、今年六月、彼の様子を伝えるレポートが某誌に掲載された。ヌエバ・ヘロナ(イスラ・デ・ピノス)の養老院にいるらしい。一番の楽しみは日本の新聞を読むことで、漢字がびっしりと書き込まれた藁半紙の束を大事そうに見せたという。写真も掲載されていて、見ると、赤茶けて、縁がボロボロになっている。厚さ約三センチ、漢和辞典を書き写したものらしい。ところが、その記事を読んだ読者から、漢和辞典を送ってやりたいと投書が殺到したという。なんということか。
 たしかに、フロリダを中心としたアメリカの亡命家族からの送金がなければ生活できなくなっているのがキューバ人の現実で、日本人一世たちも物不足に喘いでいる。訪問した日本の縁者がそっと置いていったドルをめぐって二世兄弟家族に啀み合いが起きたという話も聞いた。しかし、彼は漢和辞書がほしいわけではない。おそらく移民直後の若いときから綴りはじめたのだろう。一字一句に郷里への想いを重ね合わせながら書き写したにちがいない。夜、一人、ランプの下で黙々と続けたのだろうそれは、彼にとって、昼の農作業の疲れを癒やす日課ともなっていたのではなかったか。長かったキューバでの奮闘、その思い出とともに、ほとんど情念とも化した限りない郷愁の念が刻み込まれている、そう思いたい。世界中どこを探してもない、移民島津三一郎の至宝であり、彼をずっと見守ってきた無二の朋でもある。
 日本人移民はキューバに何を遺したか。よく言われるのが、島津もその一人だが、農を通じてイスラの荒野を沃野に変えたことである。これに疑いはない。だが、あとがない。メキシコ、ペルー、ブラジル同様、百年近い歴史を持ちながら、二世、三世に政治的経済的基盤をまったく遺せなかった。いや、そんなものとは程遠い、自らの一時帰国さえ叶わなかった、そんな革命後を彼らは生きてきたのである。月並みだが、もし日本人移民の美徳がその勤勉さにあったとするなら、それさえも十分に発揮できることなく終わったのがキューバの日本人移民だった。何がそうさせたのか、それは繰り返すまい。
 キューバ日本人移民百周年。そう謳い、両国でさまざまなイベント、フェスティバルが続いている。その一方で、この半年間に七人もの一世が死んでいった。これまではいくら多くても年に三、四人だったことを考えれば皮肉な話である。現在、キューバの日本人移民一世は十七人(二人は二世扱いだが日本生まれ)、うち十一人が九十歳を超えている。(1998.09)”




大先輩の生き様を忘れないよう残しておきたい…市民栄誉賞⁈

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