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2015年7月21日火曜日

五七の桐

首相が記者会見などをするときに

首相官邸ホームページより「五七の桐」

こんなマークを見かける。
これはなんだろうと調べてみた。

首相官邸のホームページによると

“ 桐花紋は政府において広く使われてきていますが、桐花紋がいつ頃から使われ始めたのか、また、その由来については定かではありませんが、従前から慣例により使われており、定着してきているものです。
 なお、紋章について一般にいわれていることなどを記しますと、
 桐花紋は、植物のゴマノハグサ科に属する白桐を紋様化したものといわれています。
 桐は、聖天子の出現を待ってこの世に現れる鳳凰という瑞鳥(めでたい鳥)の宿る木だといわれており、天皇のお召しものにも桐や鳳凰などの紋様が使われるようになったといわれています(はっきりとはしていませんが、一説によれば嵯峨天皇(786~842年)の頃から使われているようです。)。
 明治政府は、明治5年に大礼服(重大な公の儀式に着用した礼服)を定め(太政官布告「大礼服制」)、例えば勅任官(天皇が任命した官吏)は、その上着に「五七の桐」を用いることとされました。明治8年には、勲章の旭日章が制定され、デザインの一部に桐花紋が使われました。
 総理大臣官邸では、以前から外国の賓客の接遇のための晩餐会等の招待状や食器、閣議室の大臣席の硯箱や大臣の表彰状などに「五七の桐」を使用しています。
 平成15年10月から首相の記者会見の際にも「五七の桐」を付した演台を使うようになりました。
(参考)
  「五七の桐」は桐花紋の代表的なもので、3枚の桐の葉の上に中央に7つの桐花を、その左右にそれぞれ5つの桐花を配した図柄となっています。
首相官邸「お答えします」



だそうだ。
ただ、一説によると聖天子の出現を待ってこの世に現れる鳳凰という瑞鳥(めでたい鳥)の宿る木については、中国の言い伝えにでてくるのは梧桐(アオギリ)なのに、日本で文様として使用された頃には、いつのまにか、白桐になってしまっていたという話もある。(一本気新聞)

そういえば、子どもらが通う新発田市立二葉小学校も「センダンは双葉より芳し」ということわざから校名がついたということだが、このセンダンはインド原産の白檀のことであって、日本にあるセンダンは違う種類のもの…という昔の人の勘違い系の話とダブる。

逆に言えば、昔から海外からの情報は多少不確かなものでも有意義ならば積極的に取り入れてきたってことか。

2014年8月22日金曜日

数の単位

「1兆×1兆は?」…小学校1年生の素朴な疑問に、お茶を濁しつつ調べてみた。

そもそも、数の単位は「命数」と呼ばれ、中国の明代の数学書「 算法統宗(さんぽうとうそう)」が飛鳥時代のころ日本に入ってきて、それもいろいろなバージョンがあったそうだが、いま一般化されているものは江戸時代の数学者吉田光由執筆した塵劫記」にあるものだそうだ。


以下、Wikipediaより
(いち)
100
(じゅう)
101
(ひゃく)
10²
(せん)
10³
(まん)
104
十万
105
百万
106
千万
107
(おく)
108
十億
109
百億
1010
千億
1011
(ちょう)
1012
十兆
1013
百兆
1014
千兆
1015
(けい、きょう)
1016
十京
1017
百京
1018
千京
1019
(がい)
1020
十垓
1021
百垓
1022
千垓
1023
𥝱(じょ禾+予)
1024
𥝱
1025
𥝱
1026
𥝱
1027
(じょう)
1028
十穣
1029
百穣
1030
千穣
1031
(こう)
1032
十溝
1033
百溝
1034
千溝
1035
(かん)
1036
十澗
1037
百澗
1038
千澗
1039
(せい)
1040
十正
1041
百正
1042
千正
1043
(さい)
1044
十載
1045
百載
1046
千載
1047
(ごく)
1048
十極
1049
百極
1050
千極
1051
恒河沙(ごうがしゃ)
1052
十恒河沙
1053
百恒河沙
1054
千恒河沙
1055
阿僧祇(あそうぎ)
1056
十阿僧祇
1057
百阿僧祇
1058
千阿僧祇
1059
那由他(なゆた)
1060
十那由他
1061
百那由他
1062
千那由他
1063
不可思議(ふかしぎ)
1064
十不可思議
1065
百不可思議
1066
千不可思議
1067
無量大数(むりょうたいすう)
1068

そんなわけで、「1兆×1兆は、1(禾+予:じょ)」というらしい。

それにしても、江戸時代に和算が流行したそうだが、行列式など世界的に見ても凄い発見がたくさんあるそうで、日本人(一部の天才…)は凄げーと感心した。

2014年5月14日水曜日

イタリア大使館

 地元・新潟県新発田市は、赤穂義士・堀部安兵衛武庸(1671年~1703年)の出身地。
そんな事情で安兵衛を顕彰する「武庸会」という市民団体があり、そのサポートをする実働部隊の「堀部安兵衛助太刀隊」に関わっている関係で、イタリア大使館にいってきた。

 イタリアの大使館の庭は、松平隠岐守の中屋敷跡で、1703年(元禄16年)2月4日に安兵衛ら10名が自刃した場所。3年越しのオファーでようやく許可が下り、くしくも安兵衛の母の命日(5月12日)に法要をすることができた格好だ。一般公開はされていないそうで、貴重な体験をすることができた。






まずは官邸で説明を受け、庭へ。
池があり、その奥に小山がある。
その向こう側は慶応義塾というロケーション。

小山に登ると赤穂義士の碑がひっそり建っていた。
そこで、安兵衛ゆかりの長徳寺住職が法要を行った。







 その後、公邸に招いていただき、手作りパイとエスプレッソで歓待していただいた。

バルコニーのすぐ下、池になっている置石から石灯篭のあたりが自刃の現場だそうだ。





























公務が忙しい中、対応してくださった大使をはじめ職員の皆さんに感謝。

2014年4月10日木曜日

フリーマガジン『街角こんぱす』4月号にコラム

新潟県新発田市の名物フリーマガジン『街角こんぱす』4月号にコラムを執筆。

「せんたく屋のおやずぃ」P.24
今月のテーマはダウン

いまでこそ安価なものも出回っているダウンジャケットや羽毛布団の歴史。
調べてみると、けっこう面白いことがあった。
北欧のバイキングと羽毛布団…

2014年2月3日月曜日

フリーマガジン『街角こんぱす』2月号にコラム

新潟県新発田市のフリーマガジン「街角こんぱす」2月号にコラム書きました。
『せんたく屋のおやずぃ』


今回は石けんの起源がテーマです。
なにげなく使っている石けんは、実は世界最古の化学製品のひとつといわれているそうです。

2014年1月21日火曜日

蕗谷虹児

蕗谷虹児

大正~昭和に女性を熱狂させた挿絵画家にして、少女マンガのルーツ、詩人、作詞家、また日本の「アニメの祖」と言われている多方面に才能を発揮したアーティスト。
新潟県新発田市出身で、そこに蕗谷虹児記念館がある。

といっても、実際に産まれたのは水原町(現 阿賀野市)のようだ。
阿刀田 高 著「夢の宴 私の蕗谷虹児伝」によると幼少期の数年間、母方の実家「鶴の湯」に預けられていて、新潟~柏崎~新潟~新発田~新潟と転々としたようだ。2回目の新発田住まいは、新潟の大火で焼け出され逃れてきたそうで、いまの掛蔵小路の小便小僧のあたりだったとか。

この本で気になったのが、1912年(大正元年)14歳になった蕗谷虹児が 桜井市策 新潟市長(爆弾市長)の目にとまり当時の大家 尾竹竹坡を紹介したという件があるが、このとき市長だったのは吉田良治郎という方で桜井氏は1916年から3年間市長を務めていると新潟市のホームページにある。ちなみに1914年、苦労の末に新潟市と沼垂町の合併が成立した。時代のうねりの中で、蕗谷虹児は東京に旅立ったことが伝わってくる。

Wikipediaをはじめ、ちょっと符合しない。ま、おそらく阿刀田さんが勘違いしたというところか。

そこから、修行時代を経て、パリで認められることに。
しかし、日本で暮らす家族の家計が破たんし、やむなく帰国。
借金を返すために挿し絵を書き始め、それがブレイクしたということだ。

12歳で若い母(享年27歳)を失った蕗谷虹児は、その作品に美しく幼い母を描き出そうとした。


日本のアニメーション草創期、東映動画(現 東映アニメーション)設立に関わり、手塚治虫や宮崎駿らに影響を与えたそうだ。長編少女マンガが今のマンガ文化の走りで、そのルーツは蕗谷虹児にあるという。記念館にも近年、全国各地から若いマニアがやってくるようになった。

代表作「花嫁人形」は新発田市の所有で、蕗谷虹児記念館に展示してある。
この絵には、いまの所有者(ご子息)も知らなかった、肉筆を見ないと分からないある秘密があるそうで、実際に見てほしいところ。
この絵が郵便局の「ふるさと切手」に採用され、売上日本一となっていて東京スカイツリータウン9階に移転オープンする郵政博物館」(2014.3.1)のこけら落とし展示として脚光を浴びている。


追伸:お孫さんのひとりが鎌倉稲村ケ崎で日本料理店「虹(こう)」を営んでいるそうだ。

2013年8月24日土曜日

「石泉荘」という、知られざる凄い庭園

2013年7月22日月曜日

風立ちぬ

ジブリの『風立ちぬ』。

どういう話か調べてみたら
零戦や雷電など戦闘機の設計をした天才航空技術者堀越二郎さんをモデルに
オリジナルの要素を盛り込んだ作品なんだそうだ。
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」主人公のモデル堀越二郎とは【戦闘機 ゼロ戦 雷電 烈風など設計】(NAVERまとめ)
ジブリが実在の人物をとりあげるのは初めてなんだそうで、
しかも太平洋戦争当時の武器…戦闘機をもってくるというので、興行的にどうなのかとちょっと心配に。
国内外の反応もどんなのがでてくるか興味深い。
けしからんとか不謹慎とか、すばらしいとか感動したとか。

個人的には、ジブリの映画にでもならない限り、この堀越さんのことを知ることはなかったと思うし、太平洋戦争当時の日本やアメリカのことを映像をまじえて見る機会はなかったなと思う。

たとえばこれ。

いまも零戦がアメリカの博物館で展示されていて、ブラモデルもベストセラーなんだとか。
どういう理由で人気なのかは、ちょっと解らないが…。
開戦直前までワシントンは、日本の戦闘機はド旧式の複葉機だと認識していて、
堀越さんの設計した戦闘機の性能にびっくりしたとアメリカ航空博物館の人が言っている。
また、アメリカの航空マニアが零戦を復元している様子がでていたが、いま所沢航空発祥記念館にきている、世界で唯一現存する飛行可能な『伝説の名機=零戦来日』ってこれ?だろうなぁ。


子ども等はイマイチな反応でポケモン派w
たぶんDVDを借りてきて観るパターンになりそうだ。
おもしろかったら、内緒で買うかもしれない。

2013年7月6日土曜日

首都圏新発田高等学校同窓会

平成25年7月5日(金)「第23回首都圏新発田高等学校同窓会総会」が
東京のアルカディア市ヶ谷で開催され、参加者は80名を超えた。



今回、来賓として新発田市から新潟県立新発田高等学校の玉木副校長と本部の小柳同窓会副会長がいらっしゃった。


玉木副校長からは、新発田高等学校の現状と運営方針が披露された。
なんでも、スポーツでは北信越大会に進んだ種目が県内2位にあたる活躍、全国大会へもテニスをはじめ複数の種目が出場をはたしたというお話をいただいた。

また、文部科学省の「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)」の指定を受けたとのこと。これは、将来の国際的な科学技術関係人材を育成するため、先進的な理数教育を実施する高等学校等を指定し、学習指導要領によらないカリキュラムの開発・実践や課題研究の推進、観察・実験等を通じた体験的・問題解決的な学習等を支援するもの。1千万円を超える予算が使えるんだとか!
凄っ。

進路指導部も頑張っていて、題して「未来の俊傑プラン」という大学講義体験やOBなどによる「俊傑講演会」を実施。外務省大臣官房 広聴室 後藤 孝 上席専門官など。




恒例の先輩スピーチは、高橋宏(高4回卒)首都大学東京前理事長。
テーマは「日本再生は教育改革から」。

哲学を勉強すること、そして近現代史…とくに明治維新から現在に至るまでの本当の歴史認識を学ばなければならないことを強調された。

講演終了後は大先輩を囲んで懇親会。
各界で活躍されている先輩方のお話はとても新鮮だった。


1,300通の案内状で返信があったのは3割程度
参加者は平均年齢が高ったが、みなさん気さくに話しかけてくださった。
若い世代こそこういう集まりに参加して
見識や繋がりをつくったほうが有意義ではないか。


2013年6月22日土曜日

宮脇淳子さん

ややもするとタブー視される清朝末期の日本をめぐる世界史。

世界の中の日本はどういう状況におかれていたのか。
ちーっとも考えていなかったし、さっぱりわからない。
ちょっとネットで検索してみたら、こんな動画をみつけた。

講師 : 宮脇淳子(学術博士・東京外国語大学講師)
演題 :『真実の中国史を知って、日本の未来を開こう!』

ほんとなのかどうかは、わからないが話のタネに。
学会や大学からは阻害されているとご本人が語っているが、
ネットでは人気がある先生のようだ。
いろいろ調べるヒントになるかもしれない。

2013年6月12日水曜日

昭和50年の航空写真

昭和50年の新発田市街地
国土情報ウェブマッピングシステム(国土交通省)というのがある。

地元・新潟県新発田市のを調べてみたら、懐かしー画像がでてきた。



二葉小学校付近
カラー空中写真閲覧検索:新発田
国土情報ウェブマッピング:新発田

新発田市街地(C5コース33:拡大可)
二葉小学校付近(C4コース32:拡大可)
自宅近辺(C4コース32:拡大可)

(※上が1コース。C5コースなら上から5番目)






これは懐かしいw
自分が中学生くらいのもの。




いまは無き陸上自衛隊新発田駐屯地脇にある野球場、本丸中学校・外ヶ輪小学校の木造校舎、新発田幼稚園、産業会館も見える。


こういうサービスは嬉しい。

2012年6月22日金曜日

新潟の教育の昔

「季刊 情報文化」というサイトをみつけて、「地域と教育 -新潟、自学の系譜-」という記事を拝読した。

理論より実際を重視した越後「自学」の風土は、大倉喜八郎や大橋佐平など実業家輩出の背景ともなっている。「江戸の教育が明治に入って花開いた。明治20年ころまで新潟からの東京帝国大学入学者は全国で5本の指に入っていたんです」と、稲川明雄・前長岡市立図書館館長は語る。

新潟独自の、お上に頼らないムラ主体の「自学」という風土は興味深い。

「地域に密着した総合的学習の実践を積み重ねる一方、地域と一体となって、教育内容のバランスについて評価することが大切だ」と、学校運営にまで地域を巻き込む必要性を訴える。「愛国心」「愛郷心」などとことさらいわなくとも、地域に愛され、地域に鍛えられた子どもたちは、自然と地域に愛情を抱き、やがては次世代を育てる人材となるべく自覚をもって成長していくにちがいない。コミュニティー自体の崩壊がいわれるいま、それを実現することはたやすいことではないだろう。

地域と学校の有効な関わり方のヒントが、この辺にあるかもしれない。

2012年3月13日火曜日

むかしの地震の記録(新潟県新発田地域)

新潟県新発田地域の地震の記録から…

紫雲寺の資料


平安時代
西暦806年  大同元年  大津波(辛丑随筆)
         小泉蒼軒 「辛丑随筆」によると 
中条あたりの人の話では大同年間(806年~809年)大津波あり
紫雲寺あたりは平田であったが仏像が村人の夢枕に立ち「近々、大津波が来るから私を高いところへ連れて行ってくれ」
と言われたので高台に連れていくと間もなく大津波が襲った
二王子山の八合目まで波が押し寄せた
このとき地が裂けて潟を成した と記されています
   863年  貞観五年六月  越後大地震おこる
  1045年  寛徳二年八月  越後大津波(鶴牛山下録)
「鶴牛山下録」によると
寛徳二年八月五日 川という川には紫色の苔が生え天気の良い日は金色の光を放った
土は締まらないで砂浜のようだった、海水は濁って田をかき回したようだった
間もなく大津波が押し寄せてきた
この津波で水に浸かること七日六夜
紫雲寺という大きなお寺の寺内にあった僧房が三十三カ寺がも大勢のお坊さんも全て水中に沈んだ
と記されています
        1060年 康平三年五月 康平の絵図できる
        1089年 寛治三年七月 越後絵図できる
  1092年  寛治六年八月  越後大津波 越後の地形は大きく変異し、紫雲寺潟(塩津潟)広くなる
                   蒲原の地は陸地が多くなる
  1099年  康和1年4月  越後・越中大地震
  
室町・安土桃山時代
  1517年  永正一四年6月 越後地震  倒壊家屋多数
  1592年  文禄元年3月  このころ越後大洪水

 新発田藩の日誌「月番日記」(読売オンラインの記事から)
天保4年11月18日の日記には、「弐丈余高波四五度」と、阿賀野川河口に高さ約6メートルの津波が4、5回押し寄せたことや、農家が全半壊し、死亡・行方不明となった漁師もいたことなど、幕府に報告した被害状況が記されている。


「標高1420.3mの二王子山の八合目まで波が押し寄せた」というのは恐ろしい話。
逃げ場がない状態の巨大津波…どこまで備えておけばいいのやらだ。