紫雲寺の資料
平安時代
西暦806年 大同元年 大津波(辛丑随筆)小泉蒼軒 「辛丑随筆」によると中条あたりの人の話では大同年間(806年~809年)大津波あり紫雲寺あたりは平田であったが仏像が村人の夢枕に立ち「近々、大津波が来るから私を高いところへ連れて行ってくれ」と言われたので高台に連れていくと間もなく大津波が襲った二王子山の八合目まで波が押し寄せたこのとき地が裂けて潟を成した と記されています863年 貞観五年六月 越後大地震おこる1045年 寛徳二年八月 越後大津波(鶴牛山下録)「鶴牛山下録」によると寛徳二年八月五日 川という川には紫色の苔が生え天気の良い日は金色の光を放った土は締まらないで砂浜のようだった、海水は濁って田をかき回したようだった間もなく大津波が押し寄せてきたこの津波で水に浸かること七日六夜紫雲寺という大きなお寺の寺内にあった僧房が三十三カ寺がも大勢のお坊さんも全て水中に沈んだと記されています
1060年 康平三年五月 康平の絵図できる
1089年 寛治三年七月 越後絵図できる
1092年 寛治六年八月 越後大津波 越後の地形は大きく変異し、紫雲寺潟(塩津潟)広くなる
蒲原の地は陸地が多くなる1099年 康和1年4月 越後・越中大地震
室町・安土桃山時代
1517年 永正一四年6月 越後地震 倒壊家屋多数1592年 文禄元年3月 このころ越後大洪水
新発田藩の日誌「月番日記」(読売オンラインの記事から)
天保4年11月18日の日記には、「弐丈余高波四五度」と、阿賀野川河口に高さ約6メートルの津波が4、5回押し寄せたことや、農家が全半壊し、死亡・行方不明となった漁師もいたことなど、幕府に報告した被害状況が記されている。
「標高1420.3mの二王子山の八合目まで波が押し寄せた」というのは恐ろしい話。
逃げ場がない状態の巨大津波…どこまで備えておけばいいのやらだ。
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