2012年7月9日月曜日

日章旗(日の丸)は新発田で生まれた?

新潟県新発田市の図書館に本を返しにいったついでに、PRコーナーで「新發田新聞かわらばん(2012年6月1日:発行者 榎本紘一)」というのをみつけて拝見した。2面に『街おこしは まず住んでいる人々が楽しまなくては』という脚本家 杉山義光さんのインタビューがあった。
 この記事によると、新発田の溝口家は外様大名で、江戸城の中では正に廊下の隅に座る存在だが、外に出れば鹿児島の島津家と親交があり、あの日の丸の旗の図案を考案したのが新発田藩であるとあった。

初耳でビックリしたので、ちょっとインターネットであたってみた。

まず、陸上自衛隊新発田駐屯地の駐屯地便り(昭和34年2月号)にこんな記事。

駐とん地便り
 日章旗誕生の聖地

 新発田を語るに、先ず市の西北を流れる加治川を落すことは出来ない。加治川は新発田地方の母である。
 遠く乱世の時代には、侵入する外敵を防ぐ唯一の大防壁となり、近くは豊穣を誇る加治川産米育成に寧日なく灌漑の便を供し、新発田繁栄の原動力となっている。陽春四月にその加治川を訪れ、堤防に上って先ず一驚する事は、花爛漫と咲きほこる巨大な桜樹が両堤上に延々と立ち並んでいることである。その数、正に六千本、長堤七里(二十八キロ)に亘り只これ桜叉桜の景観である。
仰げば遙か遠く飯豊連峰は未だ白雪を頂き、その影を写した加治川の清流は燎乱と咲きほこる桜花トンネルの中を一陣の春風に繽紛と舞い落ちた花片を水面に浮べ乍ら、悠久の流れを続けて行く。 
世に桜の名所として三千本を誇る吉野山を筆頭に、京都の嵐山或いは東京の上野等数多いが、これ等は何れも桜のみの風情であって、およそ、その規模と云い叉桜と水の配合の妙と云い、此の加治川の風景には到底及ぶべくも無いのである。
殊に下流の眞野水門の附近は、実に加治川風光中の白眉で『あらひせき』と称する百五十五メートルの河底を両岸にかけて造られた恰も水中の堡壘かと思われるコンクリートの大斜面に桜花を写して急流が堰を切って放射する如く落ちて行く。堤上に埋った観桜客は、只々、陶酔の境地に誘われると云った有様。正に一幅の名画の感がある。市民一様に東洋一の桜花と誇るのも蓋し、当然と、うなづかれるところである。
 此の桜を階上から望む事が出来る吾々の隊舎は、新発田城趾にある。此処は溝口藩、三百年間に亘る居城の跡である、一木一草に至る迄永い歴史の夢を秘めている。溝口歴代の藩侯は治水墾田と民衆愛無の善政によって名を知られているが、特に十一代溝口直諒は健斉と号し、名君のほまれが高かった時、偶々幕末多難の時に遭遇したのであるが、その開国海防の新思想は卓然として藩論を指導するとともに氏族と国家百年の大計の為に国旗の考案には心血を注いだ。
 或る日、健斉将士を集め城頭高く一族の旗を掲げた。へんぽんとひるがえる日の丸を指し「この旗こそ日本民族の光とならん」と叫んだのである。
 後日、此の旗を薩摩の島津侯の推薦により明治政府を経て奏請、日本国の国旗として制定されたものである。ともあれ戊辰の役後、天守櫓を始め多くの城櫓され、今は僅かに石垣と城濠と大手門、それに隅櫓が一ヵ所残されているのみで往時の面影は無いが、蓮の花咲く濠端に佇んで高さ七メートル、西南二方面に延々五百五十メートルに亘る城壁の上に、四季変わらぬ翠緑の影を写して天にする老松を仰げば、溝口健斉の独創的見識と遺風が、颯々と胸に迫るを覚えるとともに、日本最初の日章旗掲揚の地にありて朝夕国旗の掲降に粛然と襟を正す。その一刻日々新たに使命の重きを特に反省出来得る事を、この上ない喜びとしている駐とん地としては、全国何れの駐とん地に較べても勝るとも劣らないであろう。
                             (第三新隊員教育隊本部 一尉)
                                   昭和三十四年二月号」

ということは、十一代溝口直椋候を調べればわかるか…。ネットで検索したら清水園の特別展の案内文がでてきた。ちなみに、清水園HPにも記載がある。




「4月28日~8月31日の間
清水園 資料館において下記の展示を行います。

*日章旗の考案者
十代新発田藩主 溝口直諒侯特別展*

日の丸を国旗にと、薩摩藩主島津斎彬侯により公儀に進言されるが、この考案者は直諒侯であると伝えられています。尊王開国を唱え著作においては健斎、画名は景山、茶事は翠濤など多くの雅号を持ち、多彩な才能に恵まれた直諒侯の所蔵作品を中心に
特別展をいたします。」


少なくとも、民間伝承のレベルではなさそうだ。
出典については梅田又次郎「勤王開国先唱者 溝口健齊公」電子書籍参照。

たぶん書簡か何かがあるのだろうか。


ところで、日章旗(日の丸)についてみると、日本の国旗(Wikipedia)では


1854年嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また徳川斉昭は、大中黒は一氏族の印だが日の丸は歴史的に日本が使用してきた印であるからと進言したといわれている。 翌1855年安政2年)、島津斉彬は洋式軍艦「昇平丸[9]を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である[10]
1859年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。
1860年万延元年)、日米修好通商条約批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団アメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。 使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイパレードする模様が伝えられている[11]。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。


と、溝口候の記載はいっさいない。あくまで諸説のなかの一つなんだろう。
が、もっと調べるとおもしろいかもしれない。

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